むかしのお話です。
吉谷村中島の六蔵というお百姓さんに、六助という少年がいました。子供の時から力持ちで、十才の時には米俵一俵を軽々と持ちあげ、十五才の時には二俵の米俵を両手に持って、家の周囲を飛び歩いたほどの怪力で、近隣の評判になりました。
この評判を聞いて、これも越後出身の当時の伊勢の海親方が吉谷を訪れ、父の六蔵を説得し、六助少年を江戸に連れて行き、力士に育てあげました。田舎出の六助少年は、親方や先輩の指導を受け、メキメキと力をつけ、その名も「山姿」と名乗り、人気も出て、中堅どころの地位を確保しました。
とんとん拍子に人気が出て、強くなる山姿に、同じ部屋の海竜という先輩がいじわるをはじめます。山姿が姿勢を低くして接すれば、辛く当り、仲間としめしあわせて、ことごとく出世の邪魔をして困らせますが、山姿は少しも逆らわずに、海竜を先輩としてたてていました。
しかし、その冷戦も遂に来るところまで来ました。伊勢の海親方が旅行で留守中に、海竜が山姿に、上野の山で公開の力くらべを申し込んで来たのです。
その日の上野の山は大変でした。会場に指定された場所には、百貫(約四〇〇キロ)もある大きな石がおかれ、この石を抱きあげて、遠い所まで運んだ者が勝者というわけです。
「山姿ァ」
「海竜ゥ」
黒山のように集まった見物人の中から、声援が続きます。やがて、もろ肌ぬいだ山姿が石に手をかけ、グッと力を入れたとたん石は持ち上がりました。大きな石は両手にささえられて、十数間(約二〇メートル以上)の場所に運ばれ、ズシーンと地響きをたてて地上におろされました。こんどは、海竜の番です。声援を受けて派手にもろ肌を抜ぎ、石に手をかけ、
「エイヤーッ!」
と、これも派手な気合いをかけ、持ちあげようとしましたが、大石はビクともしませんでした。
見物人からさんざん悪口をいわれた海竜は、仲直りの酒といつわって、山姿に毒の入った酒を飲ませて殺し、どこかに逃げてしまいました。
旅から帰った伊勢の海親方は、これを聞き、山姿に深く同情し、上野の山の一隅に「山姿碑」を建て、その時の大石は「百貫石」という名で、今もなおその場所に残っているそうです。
それから数年後、吉谷村滝谷に、再び怪力少年が出て山姿と名乗りましたが、先輩山姿の悲話を聞いていたので、いくら薦められてもプロの力士にはならず、職業は木樵を選び、その余暇に相撲をとりました。今でも吉谷の白山神社には、二代目山姿の化粧まわしが、保存されているといわれます。