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おぢやの伝説

片貝村と秋山郷

これは江戸時代からつい最近まで続いた、本当にあったお話です。
片貝村一帯に豪勢を誇った造り酒屋伊丹屋は、質屋もかね、当十九台佐藤佐平治は、薦められても戸長とか庄屋という役につかず、ひたすら商売一本に打ち込み、その取引きは遠く佐渡や北海道にも及び、その財力は長岡の殿様もかなわないと評判されていました。
天明三年(1783年)、全国を襲った飢饉は、各地に言語に絶した惨状を見せました。その頃、片貝村(市内片貝町)の造り酒屋伊丹屋の店先に、数人の乞食同然のみすぼらしい一団が、杖をたよりにたどり着きました。
信濃川を下って乗り込んできた乞食同然の一団は、伊丹屋についたものの極度に弱っていたので、応急手当をうけ、ポツリポツリと用件を語りはじめました。
秋山郷一帯は平家の落人といわれており、今回の飢饉では特に結東部落がひどく、猫のひたいほどの田は一粒の米もとれず、もちろん貯えの米などあろうはずもなく、老人や幼児の餓死は日に日に増え、枕元で振る紙袋の中に入った米の音を聞き、
「オ、お米の音か。これで娯楽往生ができる。」
と笑いまで浮かべて死んでいったのだそうです。
現在では中村に米も粟も稗もなくなり、来年の種籾まで食べつくし、蛙も蛇もトカゲも、食べられるものはみんな食べつくして、今はもうそれさえもなくなり、部落民一同は死の直前だという話です。
「・・・・・それで、あるお役人が、信濃川を船で下って行くと、片貝村というところがある。そこに佐藤佐平治という立派な人がいるから、その人に頼めば必ず村を救ってくれると聞かせてくれたので、村中相談の上代表を決めて、決死の覚悟でこちら様にあがったわけです。何とぞ村の者をお助け下さいませ。」
と一同手をつき、畳にひたいをすりつけて、涙さえ浮かべて決死の懇願をしました。
「そのあるお役人とは誰のことですか。」
「ハイ、脇野町代官様の配下で、福原新左ェ門様というおひとですが、この人は秋山郷の生まれのひとで・・・・・。」
「その福良様がワシをみこんだのですね。よろしい、できる限りことをやりましょう。御安心ください。」
と佐平治はいいきり、安穀米(救済米)を買うお金五十両と、自家の飢饉の対策に貯えておいた海草類のワカメ、コンブなど数万束を送る約束をしましたので、代表たちはとび上がって喜び、勇んで村に帰り、約束に日、荷物のと船が千手村の船つき場に到着するのを待ちました。
やがて期日がきました。秋山郷から選ばれた若者たちが数十人、千手の船つき場までやってきました。しかし、これらの者たちはみんな裸足だったので、この佐藤佐平治の義挙を伝え聞いた、真人の庄屋福原原太郎左ェ門はワラジ千足を寄付して、一同を励まし、荷物を無事秋山郷まで届ける応援をしました。
部落民一同は餓死寸前で救われました。村中がこの大恩人佐藤佐平治と福原新左ェ門を神様として、両名の名前を掛け軸にして朝夕礼拝して感謝の意を表しました。この掛け軸は今でも残っているそうです。
その後村はようやく復興し、当時恵んでもらった五十両返金を目標に、村中一所懸命に働き、ついに五十両を達成したので、村の代表が千手からふたたび船で片貝村まで下り、佐平治にあってていねいに当時の礼を述べ、
「つきましては、安穀米買付けのお金五十両、村中働いてつくりましたので、ぜひお納めください。」
と、佐平治の前にだしましたが、彼はきっぱり拒絶して、
「それはいけません。あなたたちにあげたお金ですから、うけとれません。」
とあくまで固辞しましたが、代表も負けておらず、
「とんでもございません。私達がこのお金を村に持って行かれましょうか。」
と押し問答になりました。そこで佐平治の方からついにおれ、
「よろしい、判りました。ではこのお金はこちらで借りることにしましよう。その利子は七分とし、毎年秋山郷から利子をとりに来て下さい。」
と、話はきまりました。
それ以来この五十両が縁となって、長く長く秋山郷と佐藤家の関係が続きましがた、明治になって、貨幣価値が変わってきましたので、片貝に来るのが三年に一回となり、昭和三十三年までそれが続いたそうです。
昭和三十三年、村人はその大恩人を子孫に長く語り伝えるため、鎮守様の境内に「佐藤佐平治の碑」を建て、先年亡くなった二十六代佐藤佐平治を招待しました。その時佐藤佐平治はさらに幾らかを寄付し、今までの利子で旅費をつくって参加しまいた。そして、
「五年目でも十年目でもよいから、思い出したら片貝に来て利子を受け取ってください。」
と話して来たそうです。

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